GIN ・ 歴史
ジンの歴史、ジュネヴァーからクラフトまで
薬用酒から始まり、ロンドンを荒らし、そして世界の定番へ。ジンがたどった数百年の物語です。
GIN / 約12分で読めます / 2026
いまバーで頼めば、涼やかなジントニックがすっと出てきます。世界のどのカウンターにも必ず一本は置いてある、ジンはそういう定番のお酒です。ところがこのお酒、もとをたどるとお腹の薬から始まり、一時はロンドンの街を飲みつぶすほどの大混乱を引き起こし、そのあと連続式蒸溜という技術の力で今の姿にたどり着きました。数百年をかけて、薬から社会問題を経て世界の定番へと化けた、なかなか波乱に富んだ経歴の持ち主です。
歴史を知っておくと、飲み比べが一段と面白くなります。オランダの古いスタイルをそのまま残した一本と、ロンドンで磨かれた辛口の一本を並べると、香りも味わいもまるで別物です。その差はどこから来たのか。その答えが、これからお話しする歴史の中にそのまま隠れています。
本記事は確認できた事実を土台に、初めての方でも流れをつかめるように書きました。ジンの歴史には有名な逸話がいくつもありますが、はっきりした史実と、後から語られるようになった言い伝えが入り混じっています。そこで、確かめられた話と「〜と言われる」話をなるべく分けて紹介します。年号や法律の名前が少し出てきますが、細かく覚える必要はありません。大きな流れだけ追ってください。
Gin · Timeline
ジンの歴史、ひと目でたどる年表
| 年代 | できごと |
| 13世紀後半 | ワインにジュニパーを加える、最古級の文献が残る。 |
| 15〜17世紀 | ジュネヴァーがオランダの定番に。基酒がブドウから麦芽へ移る。 |
| 1688〜1690 | 名誉革命と一連の法で、国産ジンが英国に根づく。 |
| 1720年代〜51 | ジン・クレイズ。安いジンが街にあふれ、社会問題に。 |
| 1751 | ホガース『ジン横丁』と1751年ジン法が、収束の転機に。 |
| 1830年代 | 連続式蒸溜が広まり、クリーンな基酒が得られるように。 |
| 19世紀後半 | 無加糖の辛口、ロンドン・ドライ・ジンが確立。 |
| 2009年〜 | シップスミス以降、クラフトジンが世界へ広がる。 |
薬から社会問題を経て、世界の定番へ。ジンは数百年をかけて姿を変えてきた。
01 ・ ORIGIN
オランダのジュネヴァー、薬から生まれた酒
ジンの祖先は、オランダやベルギーを含む低地地方で生まれたジュネヴァー(genever/jenever)というお酒です。麦芽由来のスピリッツにジュニパー(西洋ネズの実)で香りをつけたもので、この「ジュニパーの香りづけ」という発想が、そのまま後のジンへ受け継がれていきます。オランダ語の「jenever」はジュニパー(ネズ)を意味する言葉で、これが英語に渡って短く訛り、「gin」という短い名前になりました。名前の由来からして、ジンはジュニパーの酒なのです。
もともとは薬だった
ジュニパーは中世のヨーロッパで、胃腸の不調や利尿への効き目を期待された薬草でした。12世紀から13世紀にかけて蒸溜の技術がよみがえるなかで、ジュニパーの実を薬として煮出したり、蒸留酒に加えたりするようになります。そのためジュネヴァーは当初、薬・強壮剤として扱われ、一時は薬局でだけ売られていたと伝わります。最初の基酒はフランス産のワインを蒸留したものでした。今のように気軽に楽しむ飲み物というより、体を整えるための一杯だったわけです。
ワインにジュニパーを加える記述は、かなり古くまでさかのぼれます。フランドルの詩人ヤコブ・ファン・マーラント(1230頃〜1300頃)が『Der Naturen Bloeme(自然の花)』にその記述を残しました。オランダ語圏でジュニパーと蒸溜に触れた最古級の文献のひとつとされます。年代は資料によって1266年、1269年、1270年と幅があるので、ここでは13世紀の後半、1260年代から1270年頃と幅を持たせておくのが安全です。ちなみに当時はまだ活版印刷の前なので、印刷物ではなく手で書き写された写本です。
楽しみのための、いわば嗜好品としてのジュニパー酒のレシピとしては、1495年頃にオランダで書かれた写本が最古の記録とされています。「焼いたワインの作り方(Om Gebrande Wyn te Maken)」という一文で、ワインを基酒にナツメグ、シナモン、クローブ、ジンジャー、カルダモン、ジュニパーなどを加えるものです。このレシピは薬の処方ではなく料理や食のレシピのなかに書かれていたため、薬用ではなく嗜好品用と考えられています。薬から嗜好品へと性格が移り始めた様子が見てとれます。
基酒がブドウから麦へ変わった
ジュネヴァーの味を決定づけたのが、基酒の切り替えです。もともとはブドウ(ワイン)を蒸留したものが基酒でしたが、寒冷化でフランドルのブドウ畑が打撃を受けたこともあり、16世紀後半には麦芽由来のスピリッツ(モルトワイン)に置き換わりました。1588年頃の蒸溜マニュアルの時点で、穀物がブドウにすっかり取って代わっていたとされます。この麦芽ベースこそ、ジュネヴァー特有のパンのような穀物香とほのかな甘みの源です。あとで飲み比べの話にも出てきますが、この土台の違いが、ジュネヴァーとロンドン・ドライ・ジンの味の分かれ道になります。
「発明者シルヴィウス」は俗説に近い
ジンの歴史を語るとき、よく登場するのが「オランダの医師フランシスクス・シルヴィウス(フランシスクス・デ・ラ・ボエ/de le Boë、1614〜1672)が、1650年頃に利尿薬として調合したのがジュネヴァーの起源」という物語です。ところが、これは史実というより後世の付け足しに近いと考えられています。おおもとであるライデン大学自身が、この説を「疑わしい」と扱っているほどです。
否定する根拠ははっきりしています。まず、オランダはシルヴィウスが生まれた1614年より前の1606年からジュネヴァーに課税していました。生まれる前から酒があって税までかかっていたのですから、彼が起源とは考えにくいわけです。さらに13世紀や1495年のレシピなど、彼より前のジュニパー酒の記録がいくつも残っています。この説が酒の歴史の主流に持ち込まれたのは、1824年にサミュエル・モアウッドが書いた酒類史のエッセイがきっかけとされ、同時代の記録ではありません。実態は「発明」ではなく、既にあったレシピを洗練させ、有名にした程度と見るのが妥当でしょう。記事や商品説明で「シルヴィウスがジンを発明した」と書かれていたら、俗説寄りの話だと思って読むのが正確です。なおシルヴィウス自身は、脳の「シルビウス裂」に名を残す実在の著名な医師で、その点は史実です。
「ダッチ・カレッジ」の由来
お酒で得る勇気を英語で「ダッチ・カレッジ(Dutch courage)」と言います。この言葉は、オランダのジュネヴァーに由来すると言われます。17世紀、ヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618〜1648)で低地地方に従軍したイングランド兵が、戦いの前に気持ちを落ち着けたり体を温めたりするために現地のジュネヴァーを飲んだ、という話です。ただし、語源ははっきり確定していません。英蘭戦争(1652〜1674)の時期に、敵国オランダを揶揄して生まれたとする別の説もあります。どちらにしても、イングランド兵はこのあと登場するウィリアム3世の即位より前から、すでにジュネヴァーに親しんでいたことになります。
世界最古級のブランド、ボルス
ジュネヴァーは、オランダが繁栄した17世紀の黄金時代に、事実上の国民酒と言えるほどの定番になりました。その象徴が、今も続くボルス(Bols)です。ボルス社は創業を1575年としており、ブルシウス家がアムステルダムで蒸溜所を構え、名前を「Bols」と短くしたと伝わります。当時は火災の危険から市の中心部での蒸溜が禁じられていたため、郊外の小さな小屋で蒸溜したとも言われます。ボルスは世界最古級の蒸留酒会社とされ、ジュネヴァーを最初にブランドとして確立した存在です。ただし1575年を裏づける同時代の史料は乏しく、起点をいつに置くかには諸説がありますが、それでもジンの歴史の古さを実感させてくれる一社です。
ジュネヴァーは今も守られた名前
ジュネヴァーは、勝手にどこの国でも名乗れる呼び名ではありません。EUの地理的表示(GI)という仕組みで保護されていて、名乗れるのはベルギー、オランダ、フランス(ノール県とパ・ド・カレー県)、ドイツ(ノルトライン=ヴェストファーレン州とニーダーザクセン州)に限られます。2008年のEU規則で保護が定められ、現在はそれを引き継いだ2019年の規則のもとで守られています。つまりジュネヴァーは、産地まで含めて法律で守られた由緒ある呼称です。味わいの面では、麦芽ベースゆえに穀物のコクと甘みが土台にあり、ピートを使わないシングルモルト・ウイスキーに例えられることもあります。ジュニパーは前に出すぎず、丸く溶け込みます。この点が、次章以降で完成するロンドン・ドライ・ジンの鋭いジュニパー香とは対照的です。
02 ・ TO ENGLAND
名誉革命とオレンジ公ウィリアム
オランダの酒だったジュネヴァーが、なぜイングランドで爆発的に広まったのでしょうか。その背景には、1688年の名誉革命があります。オランダ生まれのプロテスタント、オレンジ公ウィレム(ハーグ生まれ、1650年)がイングランドへ渡り、逃亡したジェームズ2世に代わって、1689年に妻メアリー2世との共同統治者ウィリアム3世として王位に就きました。彼のオランダ出身という背景が、オランダの酒ジュネヴァーがイングランドで広まる土壌になったとされます。
ただし、ここは少し注意が必要です。「ウィリアム3世個人がジンをイングランドに持ち込んだ」という言い方は、単純化しすぎです。前章で触れたとおり、イングランド兵はもっと前からジュネヴァーを知っていました。ウィリアムのオランダ出自は、いわば普及の追い風・象徴であって、直接の持ち込み役だったわけではありません。実際に効いたのは、彼のとった政策です。
フランス産ブランデーの締め出し
ウィリアム3世の治世で、イングランドはフランスと戦争状態に入ります(九年戦争、1689年開戦)。フランスの経済を弱めるため、イングランドは対仏の封鎖に踏み切りました。1688年の会期には「フランスとのすべての交易・通商を禁止する法」が制定され、フランス産のワイン、酢、ブランデー、麻布、絹、塩、紙などの輸入が「国富を枯渇させ、国内産業を害した」として禁じられます。当時イングランドで最も人気だった蒸留酒はフランス産ブランデーでしたから、この禁輸で市場にぽっかり穴があきました。
「誰でも蒸溜してよい」への転換
空いた穴を国産の酒で埋めるため、1690年には「穀物からのブランデー・蒸留酒の蒸溜を奨励する法」が作られました。フランス産ブランデー禁輸で生じた需要を埋め、余った穀物を消費させ、低い酒税で戦費をまかなう、という一石三鳥をねらった法律です。この法は、酒税さえ納めれば「いかなる人物でも」穀物から蒸留酒を造れると定め、それまでの排他的な特許を無効にしました。ロンドンの蒸溜業者ギルドが握っていた独占が、この1690年に打ち破られたのです。ジン造りは、ビール醸造よりも小さく簡単な設備で始められたため、参入の壁が低いのも追い風でした。
さらに税制も国産に有利でした。1690年の法は原料ごとに酒税を分け、糖蜜などを混ぜず麦芽穀物だけから造った蒸留酒には最低の税率(1ガロンあたり1ペニー)を適用しました。輸出分には1ガロンあたり3ペニーの還付まで設け、国産の穀物スピリッツを強く後押ししました。高い関税で締め出されたブランデーと、ほとんど規制のない安い国産ジン。この組み合わせによって、ビール造りに向かない粗い穀物からでも造れる、粗くて安いジンが街にあふれ出します。これが、次章で紹介する「ジン・クレイズ」の火種になりました。
なお、蒸溜業者ギルドの品質監督が完全に失われた時期については、資料に少し揺れがあります。1690年の法が「誰でも蒸溜してよい」と法的に扉を開いた一方で、ギルドに与えられていた独占の特許そのものが正式に取り消されたのは、1702年にアン女王が行ったときだ、という記述もあります。二段階で理解すると、つじつまが合います。いずれにせよ、品質を保証する仕組みが弱まり、裏通りの蒸溜所が数多く湧き出したことは間違いありません。
ジンの台頭は、宗教や国際政治とも結びついていました。プロテスタントのウィリアム3世が、カトリックのフランスと戦うなかでジンが広まったため、歴史家アンジェラ・マクシェインはジンを「プロテスタントの酒」と特徴づけています。敵国フランス(カトリック)のブランデーへの敵意が、国産ジンを後押ししたわけです。ジンは単なる飲み物にとどまらず、時代の空気を映す酒でもありました。
03 ・ GIN CRAZE
ジン・クレイズと、たび重なるジン法
安いジンが街にあふれた結果、ロンドンは深刻な状況に陥ります。この、安いジンの蔓延が社会問題として大きく騒がれた時期を、「ジン・クレイズ(Gin Craze)」と呼びます。正式な年代区分ではなく、おおむね1720年代から、後で触れる1751年のジン法までを指す呼び名です。地方や移民からロンドンへ人が流れ込み、劣悪な住環境と低賃金、貧困が広がった社会変動の時期と重なっていました。
桁が変わるほど増えた消費
生産量は、数十年で桁が変わるほど跳ね上がりました。イングランドのジン生産は、1685年の約50万ガロンから、1733年には約1,100万ガロンへと急増したとされます。街角のあちこちで、ほとんど規制なく、きわめて安く売られました。消費量で見ると、1743年には一人あたり年間およそ2.2ガロン、リットルに直すと約10リットルに達し、なお増え続けていたと言われます。1730年頃には、ロンドンにジンを売る店が約7,000軒あったとも伝わります。専用の店だけでなく、露店や雑貨店でもジンが並びました。これらの数字は当時の人口や密造分の推計を含む概算ですが、いかに桁外れだったかを感じるには十分です。
効かなかったジン法、効いたジン法
政府は、たび重なる法律でこの混乱を抑えようとしました。ジン法は一本ではなく、1729年から1751年にかけて複数回出されています。年号や本数は資料によって数え方が違うので、ここでは主なものだけ、大きな流れとして押さえてください。
- 1729年のジン法。小売業者に免許取得と課税を求めましたが、ジンの勢いを止められず、施行から数年後に事実上撤回されました。
- 1736年のジン法。年50ポンドという高額の免許料と、小売1ガロンあたり20シリングの重い課税を課しました。ところが実際に取得された免許はわずか2件で、法律はほぼ完全に無視されます。この法の施行日には、擬人化されたジン「マダム・ジェニーヴァ(マザー・ジン)」の死を悼む模擬葬儀が各地で行われ、ジン店が看板に黒い布をかけて喪に服す、という騒ぎまで起きました。
- この頃、違法販売を通報した密告者に報奨を与える仕組みが導入されました。しかし密告者が群衆に襲われて命を落とすことも多く、治安判事が暴動を鎮めようとしても収まらない混乱が続きました。
- 1743年のジン法。方針が転換します。1736年の法は執行できないと見なされ、戦費に苦しむ政府は免許料と課税を大きく引き下げ、蒸溜業者を免許制の枠の中に取り込む現実的な規制へ舵を切りました。皮肉にも、この頃の生産は約800万ガロンと高水準でした。
- 1751年のジン法。これが転機になります。正式には「1750年酒類販売法(Sale of Spirits Act 1750)」で、1751年6月25日に裁可、7月1日に施行されました。蒸溜業者が無免許の業者へ売ることを禁じ、小売免許を年およそ2ポンドに設定し、家賃や地方税を払える相応の資産の持ち主にだけ小売を認めました。内容が合理的だったため実際に機能し、成功例とされています。
ホガースが描いた「ジン横丁」
この1751年、ジンの惨状を後世に伝える有名な作品が生まれます。画家ウィリアム・ホガースが発表した、対になった2枚の版画『ビール街(Beer Street)』と『ジン横丁(Gin Lane)』です。ビールを健全な飲み物として、ジンを退廃の元凶として対比させました。1枚1シリング(上質版は1シリング6ペンス)と安く売られ、庶民に広く出回りました。これらの版画は1751年のジン法の制定を後押しするためのものでもあり、治安判事で作家のヘンリー・フィールディングが同じ年に出した『近時の強盗増加の原因に関する調査』という著作と連動していました。この本は、ジンの飲酒と犯罪の増加の関わりを論じていました。
『ジン横丁』のなかのジンの地下室の看板には、「1ペニーで酔える、2ペンスで泥酔、寝るための藁はタダ」という文言が刻まれています。舞台はロンドンの悪名高いスラム、セント・ジャイルズ地区です。中央には、酔って乳児を階段から落としてしまう母親が描かれています。この母親像は、1734年に実際に起きた事件を反映したとされます。ジュディス・デュフォーという女性が救貧院から我が子を連れ出して手にかけ、その衣服を1シリング4ペンスで売ってジンを買った、という記録が残る事件です。版画がこの特定の事件を直接描いたかどうかは断定できませんが、こうした実話を踏まえたと説明されています。
クレイズはなぜ終わったのか
1751年の法のあと、ジンの生産量は目に見えて減りました。1752年までに、課税された蒸留酒の量は3分の1以上も減り、およそ20年ぶりの低い水準になったと言われます。そしてジン・クレイズは、1757年頃までにほぼ終息しました。ただし、多くの歴史家は、収束の主な原因を法律よりも穀物価格の高騰に見ています。人口が増え、不作が続いてジンの原料である穀物の値段が上がり、賃金が下がって食料も高くなったことで、庶民がジンを買えなくなった、というわけです。一連のジン法は、あくまで補助的な役割だったと評価されています。厳しい取り締まりだけで人々の酒が変わるわけではない、という話でもあります。
04 ・ LONDON DRY
オールド・トムから、辛口のロンドン・ドライへ
ジン・クレイズの時代のジンは、決しておいしいものではありませんでした。連続式蒸溜が登場する前で、基酒の精製が不十分だったため、雑味や刺激が強かったのです。そこで、砂糖などで甘みをつけて飲みやすくしたスタイルが主流になります。これがオールド・トム・ジンです。18世紀から19世紀の英国で流行した、やや甘口のジンで、ロンドン・ドライより甘く、オランダのジュネヴァーより辛口という中間の位置にあります。そのため、ジュネヴァーとロンドン・ドライをつなぐ「ミッシングリンク(失われた環)」と呼ばれます。
「オールド・トム」という名前の由来は、パブの外壁に掲げられた黒猫(オールド・トム)の木製看板にちなむと言われます。ただし、これは確定した史実ではありません。由来には、蒸溜所の職人トーマスにちなむ説や、樽に落ちた猫にちなむ説など諸説があり、はっきりしていません。「〜という言い伝え」として受け取るのが正確です。
猫の看板と、世界初の自動販売機
この黒猫の看板からは、ちょっと面白い逸話が生まれています。「パス・アンド・ミュー(Puss and Mew)」と呼ばれる仕組みで、世界初の自動販売機と言われます。客が猫の像に「猫よ、2ペニー分のジンをくれ」と声をかけ、在庫があれば内側にいる売り手が「ミャー」と応じます。客が猫の口に硬貨を入れると、猫の足の下の鉛の管からジンが注がれる、という仕掛けです。1738年、元軍人でスパイのダドリー・ブラッドストリート大尉が、ロンドンのブルー・アンカー・アレイで始めたとされます。当時の1736年のジン法がジンの小売を厳しく制限していたので、彼は法に「家のドアを破って踏み込む権限」が無い抜け穴を見つけ、知人名義で借りた家に猫の看板を掲げて、ひそかにジンを売ったのです。売り手の顔が客に見えない仕組みだったため、摘発を逃れました。もっとも、この話は当時の回想録に基づく逸話色が強いので、「世界初の自動販売機と言われる」くらいに受け取っておくのが無難です。
連続式蒸溜が味を変えた
ジンの味を根本から変えたのが、19世紀の連続式蒸溜という技術です。連続式蒸溜器を最初に商業化したのは、スコットランドのロバート・スタインで、1820年代後半に特許を取りました。ここでよくある誤解をひとつ正しておきます。連続式蒸溜を「発明した」とよく言われるアイルランド人のイーニアス・コフィー(1780年頃〜1852年)は、正確には元祖ではありません。彼はスタインの蒸溜器を改良して実用性を高めた人です。コフィーは元アイルランドの酒税局の役人で、1830年に出願し、特許は1831年2月5日に付与されました。スタインの塔式蒸溜器に2本の管を加えて蒸気を再循環させる2塔式にすることで、より純度が高く軽い、雑味の少ないクリーンなスピリッツを連続的に得られるようにしたのです。この方式は「コフィー・スチル」の名で広まりました。
クリーンな基酒が得られるようになると、雑味を砂糖で隠す必要が減りました。造り手たちは甘みを減らし、あるいは省くようになり、19世紀後半には無加糖の辛口ジン、つまり「ドライ・ジン」が広まります。これがのちに「ロンドン・ドライ・ジン」と呼ばれるスタイルに育っていきました。この辛口への移行は、当時のイングランドで高まっていた「辛口のシャンパン」人気にも後押しされたと言われます。甘くないものを好む嗜好が、酒全体で広がっていた時代でした。
ロンドン・ドライは産地ではなく製法
ここで大事な整理を。「ロンドン・ドライ」は産地の名前ではなく、製法・スタイルの区分です。香りづけを蒸溜の工程のなかだけで行い、甘みの後づけをほとんど認めないスタイルとして確立されました。EUの規則(2019/787)では「ロンドン・ジン」という区分について、最終製品1リットルあたり転化糖換算で0.1グラムを超える甘味を加えてはならない、着色もできない、と定められています。ジュネヴァーは、これらのジンとはまた別の区分に属します。ロンドンで生まれたスタイルではありますが、この基準さえ満たせばどこで造ってもよいのが、ロンドン・ドライの面白いところです。あとで紹介するタンカレーが、まさにその好例です。
オールド・トムの消滅と復活、そして禁酒法
甘口のオールド・トムは、辛口のロンドン・ドライが主流になるにつれて姿を消し、20世紀にはほぼ市場から消滅しました。それが近年、クラシックカクテルを見直す動きのなかでよみがえります。ヘイマンズが古いレシピをもとに復刻し、多くの生産者が後に続きました。今では、マティネスやトム・コリンズといった古典カクテルを本来の味で再現するために使われています。歴史をたどってきた酒が、カクテル文化の復権とともに戻ってきたわけです。
もうひとつ、ジンの歴史で外せないのがアメリカの禁酒法時代(1920〜1933年)です。この時期には、粗悪な密造ジン「バスタブ・ジン」が横行しました。安価な穀物アルコール、ときには工業用のメチル(木)アルコール由来のものに、水やジュニパー油、グリセリンなどを混ぜて造られ、失明や死に至る健康被害の報告もありました。名前は、大きな瓶が流し台に入らず、浴槽の蛇口で水を足したことに由来するとされます。この粗悪なジンを少しでも飲みやすくするため、もぐりの酒場ではビターズやソーダ、ジュース、フルーツで割るカクテルが発達したと言われます。蜂蜜とレモンで割るビーズ・ニーズなどは、まさに不味いジンをごまかすために生まれたとされます。ただし注意したいのは、カクテル文化そのものは禁酒法より前、19世紀後半の「黄金時代」にすでに確立していた点です。禁酒法が「割って飲む習慣を後押しし、特定のカクテルを生んだ」とは言えますが、「カクテルは禁酒法で生まれた」と書くと言いすぎになります。
05 ・ EIGHT BOTTLES
歴史をたどる8本
ここまでの流れを、実際に飲んで確かめてみましょう。ジュネヴァー、オールド・トム、ロンドン・ドライ、そして現代のクラフトという4つの段階が、なるべくばらけるように、日本で手に入る実在の8本を選びました。この順に開けていくと、ジンが数百年かけてたどった味の変化を、舌でなぞることができます。度数はどれも40パーセント以上と高いので、割って、適量で楽しんでください。
- ボルス ジュネヴァ(ジュネヴァー段階)。度数42パーセント。1575年創業のボルスが造る、ジンの原型そのものです。穀物のモルトワインを単式蒸溜で重ね、ジュニパーの蒸溜液などをブレンドしています。ジュニパーは控えめで、パンのような穀物の甘みとコクが土台にあり、無ピートのウイスキーに近い印象です。オーク樽で熟成させたバレル エイジドもあり、ジュネヴァーの「ウイスキー的」な側面まで味わえます。日本ではアサヒビールが正規輸入しています。まずこの一本で、ロンドン・ドライになる前のジンの姿を知ってください。
- ヘイマンズ オールド・トム(オールド・トム段階)。度数41.4パーセント。ロンドン最古のジン蒸溜一家ヘイマン家が、バーテンダーの求めに応えて1860年代の家伝レシピを2007年に復刻した一本です。10種のボタニカルに砂糖由来の甘みを加えた、ロンドン・ドライより甘くふくよかなヴィクトリア朝スタイルで、まさにジュネヴァーとロンドン・ドライの中間の味です。ヘイマン家は、次に紹介するビーフィーターの創業者ジェームズ・バローの子孫にあたります(続柄の代数は資料により揺れます)。日本では国分グループ本社が扱っています。ボルスの次に開けると、甘みの橋渡しがよく分かります。
- ビーフィーター(ロンドン・ドライの古典)。度数40パーセント。ジェームズ・バローが1863年にロンドンで蒸溜事業を取得し、「ビーフィーター」の名は1876年頃の記録に初めて登場します。ジュニパー、アンジェリカ、コリアンダー、リコリス、アーモンド、オリス、セビリアオレンジ、レモンピールなど9種のボタニカルを使います。今もロンドンのケニントンで全量を蒸溜している「ロンドン産のロンドン・ドライ」で、日本ではサントリーが輸入し、量販店やコンビニでも定番です。辛口ジンの物差しとして最適な一本です。
- タンカレー(ロンドン・ドライの古典)。度数47.3パーセント。1830年、チャールズ・タンカレーがロンドンのブルームズベリーで蒸溜を始めました。ジュニパー、コリアンダー、アンジェリカ、リコリスというわずか4種のボタニカルによる、キレのある辛口が持ち味です。面白いのは、現在の蒸溜所がスコットランド(キャメロンブリッジ)にある点です。「ロンドン・ドライは製法の区分であって産地ではない」という話を、そのまま証明してくれる一本です。ビーフィーターと並べると、同じ古典的ロンドン・ドライでも表情が違うのが分かります。
- シップスミス(クラフト革命の象徴)。度数はおよそ41.6パーセント。2009年、ロンドンでおよそ200年ぶりに銅製ポットスチルの蒸溜を復活させた、クラフトジンの象徴的存在です(英語圏では189年ぶりとも記されます)。創業者たちは免許取得のために当局へ働きかけ、伝統的な小規模蒸溜の扉を開きました。銅の単式蒸溜による、花のような香りと柑橘の複雑味が特徴です。2016年にビームサントリーが経営権を取得し、日本ではサントリーが正規販売しています。ジンの歴史が、現代のクラフトへと折り返す転換点を担った一本です。
- ヘンドリックス(現代クラフト)。度数は表記により41.4〜44パーセント。1999年にスコットランドで生まれた、キュウリとバラで知られる変わり種です。設計の異なる2基のポットスチルの原酒をブレンドし、11種のボタニカルに加えて、蒸溜のあとにキュウリとブルガリアンローズのエッセンスを加えます。この「蒸溜後の香味づけ」ゆえに、ロンドン・ドライを名乗れません。第4章で説明したロンドン・ドライの基準を、逆の側から教えてくれる好例です。日本でも広く流通しています。
- モンキー47(現代クラフト)。度数47パーセント、標準は500ミリリットルです。ドイツの黒い森(シュヴァルツヴァルト)産で、名前の「47」は使用ボタニカル47種と度数47パーセントの両方を指します。47種のうち約3分の1が黒い森原産で、アカシアの花やトウヒの新芽、ブラックベリーの葉などを含みます。約1年半、120以上の試作を経て2010年に登場しました。香りが複雑で層が多く、少しずつ長く楽しみたいプレミアムな一本です。日本ではペルノ・リカール・ジャパンが2017年から販売しています。
- 季の美 京都ドライジン(現代クラフト・日本)。度数45.7パーセント(小売では45度と表記されることもあります)。2014年設立の京都蒸溜所が、2016年に発売した日本のクラフトジンの草分けです。米由来のライススピリッツを基酒に、玉露、柚子、赤松、山椒といった和の素材を含む11種のボタニカルを6つのグループに分けて個別に蒸溜し、ブレンドします。仕込み水は伏見の軟水です。ロンドン・ドライの技法に和の素材を掛け合わせた、現代ジンの到達点のひとつです。日本ではペルノ・リカール・ジャパンが展開しています。数百年の物語の、いまのところの最先端を、日本の一本で締めくくれます。
おわりに
ジンの歴史は、そのまま「味の設計図」になっています。薬から始まり、ブドウから麦へ基酒が変わり、名誉革命の政策で英国に根づき、ジン・クレイズの混乱を経て、連続式蒸溜のおかげで辛口のロンドン・ドライにたどり着き、いまはクラフトで世界中に広がりました。この流れを頭に入れておくと、ボトルの説明書きが急に読めるようになります。「ジュネヴァー」と書いてあれば穀物のコク、「ロンドン・ドライ」と書いてあれば蒸溜だけで香りをつけた辛口、と見当がつくからです。
おすすめは、この記事で紹介した8本を、なるべく歴史の順に飲んでみることです。ボルスで原型を知り、ヘイマンズで甘みの橋を渡り、ビーフィーターとタンカレーで辛口の古典を確かめ、シップスミスから現代へ折り返して、ヘンドリックス、モンキー47、季の美で今の自由さを味わう。この順番なら、数百年の変化を無理なくたどれます。飲むときは、同じソーダ割りやジントニックで割り方を揃えると、ジンそのものの違いがくっきり見えてきます。そして、飲んだ一本と、感じたことを酒記に記録してみてください。「これは穀物の甘みが強い」「これはジュニパーが鋭い」と言葉にしていくうちに、自分がどの時代のジンに惹かれるのかが、少しずつ形になっていきます。
よくある質問(FAQ)
ジンとジュネヴァーは何が違うのですか。
ジュネヴァーはジンの祖先にあたるオランダの酒で、麦芽由来のモルトワインを基酒にする点が決定的に違います。そのため穀物のコクと甘みが強く、ジュニパーは控えめです。一方、現代のジンは高純度のスピリッツにジュニパーなどで香りをつけ、ジュニパーが主役になります。ジュネヴァーはウイスキーに近く、ロンドン・ドライは辛口でジュニパーが際立つ、と覚えておくと分かりやすいです。
ジンはオランダの医師が発明したと聞きましたが、本当ですか。
フランシスクス・シルヴィウスが発明したという説は広く語られていますが、俗説に近いと考えられています。おおもとのライデン大学自身がこの説を疑わしいと扱っており、彼が生まれる前の1606年にはすでにジュネヴァーに課税されていたこと、それ以前のレシピが多数残っていることが理由です。実態は発明ではなく、既にあったレシピを洗練させ有名にした程度と見るのが妥当です。
ロンドン・ドライ・ジンはロンドン産という意味ですか。
いいえ、産地ではなく製法・スタイルの呼称です。香りづけを蒸溜の工程のなかだけで行い、甘味の後づけや着色をほとんど認めない、といった基準を満たしたジンを指します。ロンドン以外で造ってもこの基準を満たせば名乗れます。たとえばタンカレーは現在スコットランドで蒸溜されていますが、ロンドン・ドライです。
ジン・クレイズはどうして終わったのですか。
1751年のジン法など一連の規制も一因ですが、多くの歴史家は、主な原因を穀物価格の高騰に見ています。人口増と不作でジンの原料である穀物が値上がりし、賃金が下がって食料も高くなったため、庶民がジンを買えなくなったのです。法律はあくまで補助的な役割だったと評価されています。
歴史を感じられるジンから飲むなら、まず何がよいですか。
原型を知るなら、まずボルス ジュネヴァがおすすめです。穀物のコクが強く、ロンドン・ドライになる前のジンの姿がよく分かります。そこからヘイマンズ オールド・トムで甘口の中間段階、ビーフィーターやタンカレーで辛口の古典、と進むと歴史の流れを舌でたどれます。度数が高いので、必ず割って、適量で楽しんでください。
主な参考・出典
- Wikipedia「Jenever」「Gin」「Gin Craze」「Dutch courage」「Old Tom gin」「Bathtub gin」「Lucas Bols」「Aeneas Coffey」「Column still」「Beer Street and Gin Lane」「Gin Act 1736」「Gin Act 1751」「Sipsmith」「Tanqueray」「Hendrick's Gin」
- The Oxford Companion to Spirits & Cocktails「genever」(spiritsanddistilling.com)/ iamexpat.nl「A brief history of Dutch jenever」/ Saveur「Genever: The Original Juniper Spirit」
- Leiden University「The dubious Leiden roots of genever and gin」(2016)/ Gin Foundry「The Legend of Dr Sylvius」
- British History Online, Statutes of the Realm vol.6(1688年 対仏交易禁止法・1690年 穀物蒸溜奨励法の本文)/ Diffords Guide「History of gin 1638-1726」「History of gin (1728-1794)」「History of gin (1831-1953)」
- Paste Magazine「The Gin Craze」/ History Hit「What Was the Gin Craze?」/ Sky HISTORY「18th Century Gin Craze」/ Wine Enthusiast/ Britannica Kids「Gin Acts」
- Metropolitan Museum of Art(Beer Street and Gin Lane 所蔵解説)/ The Spirits Business「Earliest gin recipe recreated for charity」(2014)「Lucas Bols: a brand history」(2017)
- Scotch Whisky「Whisky heroes: Aeneas Coffey」/ Saucey Blog「The Puss and Mew」/ Cotswolds Distillery「The History of Old Tom Gin」/ Imbibe Magazine「The Cat's Meow: How Old Tom Gin Reclaimed Its Place」
- The Mob Museum「Bootleggers and Bathtub Gin」/ Ohio History Connection「Bathtub Gin and the Bee's Knees」
- EU Regulation (EC) 110/2008 / Regulation (EU) 2019/787(ジュネヴァーの地理的表示保護・London ginの定義)/ eAmbrosia EU GI登録簿/ theginisin.com「What is London Dry Gin?」
- アサヒビール 公式(ボルス ジュネヴァ)/ 国分グループ本社・Hayman's 公式(ヘイマンズ オールド・トム)/ サントリー 公式(ビーフィーター・シップスミス)
- 京都蒸溜所 公式(季の美)/ ペルノ・リカール・ジャパン お知らせ(モンキー47・季の美)/ William Grant & Sons 公式・ヨドバシ.com(ヘンドリックス)/ VinePair「9 Things You Should Know About Bols Genever」「10 Things You Should Know About Monkey 47」
本記事の度数・容量・入手性などの情報は執筆時点のものです。銘柄の仕様や限定版により内容が異なる場合があります。年号や法令名は一次史料と信頼できる資料で確認していますが、逸話や俗説には「〜と言われる」と付しています。お酒は20歳になってから、適量を楽しみましょう。